描くこと、書くこと、掻くこと──ミヤケマイさんの仕事と制作における「傷」について
小金沢智

描くこと、書くこと、掻くこと ──ミヤケマイさんの仕事と制作における「傷」について 小金沢智 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 現在の美術が置かれている困難の一つに、主な鑑賞の場が美術館やギャラリーという、日中の決まった時間に開閉し、外部の空間から遮断され、常に同じ光や温湿度環境が求められているクローズドな場であることがある。その空間は、朝の光が差しこむこともなければ、夜の暗闇で満たされることもなく、花のにおいが薫ることもなければ、鳥の囀りが聞こえることもない。作品のため、きわめて人工的に整えられた空間は、私たちの生活にふつうに存在しているものを実態としても意識としても遠ざけ、そぎ落としていった。したがって、ジャンルは細分化し、成熟とは名ばかりの蛸壺化が進んだ結果、お互いの無干渉と無理解も起こっている。 詩人で評論家の大岡信(1931-2017)は、代表作のひとつ『うたげと孤心』(1978年)で、詩歌の創作の場においては「うたげ」の原理が強力に働いていたと論じている。たとえば、「平安朝の室内調度品である屏風を装飾するために、絵と和歌の間に「うたげ」が生じなければならなかった。その屏風を見ながら、ある人々はまた和歌を作り、ある人々は、屏風のある室内情景を絵巻に描いた。趣味の高さを競うさまざまの遊び──絵合、物合、草花合、貝合等々──も、同じ場から生い出て、「生活の芸術化」という無際限な要請を満たすべきものとなっていった」(「序にかえて」『うたげと孤心』)と。さらに続けて言うには、「つまり、日本の古典詩歌の世界では、文芸は文芸、生活は生活という二元論ではなく、文芸は生活、生活は文芸という一元論が、久しく原則を成していたということができるのではないか。(中略)この地点に立って見わたしてみると、文学、芸術、芸能その他の多様な現象が、この視野の中でならすっぽりおさまり、互いに照らし合いさえすることに気づいたのだった」(同前)。 非常に重要な指摘だと思う。さまざまな分野の創作が同じ場において行われること。『うたげと孤心』の骨子は、このような「うたげ」の場と原理に加え、優れた詩歌が生まれるためには作家の徹底的な「孤心」も同時になければならないということであったが、いま、私たちが日本において美術あるいは芸術と呼んでいるものがそもそもどういった状況から発生・成熟したのかということを考えるとき、この視点はおおきな手がかりを与えてくれると私は考えている。 美術家を名乗るミヤケマイさんの多岐の分野・領域に亘る仕事も、こうした認識をもってはじめて理解の一端に立つことができるのではないか。ミヤケさんが「2024年の私の作品として、最もおおきなもの」と私に語ったのは、2024年夏から自ら主宰し運営している「大人の寺小屋 余白」の現場である、滋賀県大津市の築120年の町家そのもの。空間全体に対する微に入り細を穿つ改修計画と、空間ごとの意匠設計、それらと自他の作品との調和は、一種の「うたげの場」とも言える新しい学び屋の創造に孤心するミヤケさんの姿を想像させて余りあるものだった。開講にあたり、「天」(宗教と美術)、「地」(食と環境)、「人」(人が作るもの)の三部構成を採用したミヤケさんは、かつて、「玉虫色の世界に無数にある落とし穴を避けて歩いていくには、生まれたての赤子の目と1000年の老木の知恵が必要となる」(『ミヤケマイ×華雪 ことばのかたち かたちのことば』図録、神奈川県民ホール、2022年3月)と述べていた。つまり、無垢な視覚と習熟した言語の両輪を世界認識の方法として持つ…

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