川上涼花 Kawakami Ryoka
1887(明治20)年東京・本郷生まれ。1921(大正10)年5月没。享年34歳。
蔵前工業卒業後、太平洋画会研究所に学び、1912(明治45/大正元)年新しい表現を求める若手芸術家が集うフュウザン会を、岸田劉生、斎藤与里、萬鉄五郎、高村光太郎らと結成して共に活躍。個性的な青年画家たちのなかでも、涼花の作品はその異色ぶりから最も注目されたと伝えられている。
特に、現在、東京国立近代美術館に収蔵されている代表作≪鉄路≫など、ゴッホなどの印象派から色彩やタッチの影響を受けながらも、当時日本に敷設されたばかりの山手線を切り通しの中をギラギラした太陽に向かって走る俯瞰的な構図で、都市化の象徴ともいえる電車を疾走しながら突き進むイメージとして描き出した作品などを生み出した。
一方で、美術展望や美術評論などの執筆活動も行い、フュウザン会の会誌『ヒユウザン』では岸田劉生との往復書簡にて互いの美術論を繰り広げて注目された。
美術記者として『二六新報社』に入社後は、時事漫画、ポンチ絵、展覧会評など連日のように取材し筆を執った。ひとりの画家がこれほど継続的に大量の記事を書いたというのは同時代の他紙ではみられなかったという。涼花がとりあげた展覧会は幅広く、文展はもとより、個人展やグループ展にいたるまで、画家としての共感を込めて評価している点が特徴だといわれる。
1914(大正3)年 11月ごろから中野に画室を設け、いまだ武蔵野の自然が残るその周辺をモチーフに木炭による風景画を描くようになる。
1915(大正4)年夏、越後(上越)と佐渡の支援者を訪ね、現地の新聞社にポンチ絵を寄稿しながら滞在。佐渡では水彩画展を開催する。
1916(大正5)年 4月 斎藤与里、萬鉄五郎等と「日本美術家協会」を結成。大森商二との二人展「木炭素描特別陳列」を開催。
1918(大正7)年、しばらく書き続けていた木炭画を2月までに中断し、その後、屏風や絵巻などの日本画制作に取組むようになる。
1919年(大正8)年に入ると再び油絵や水彩画の制作にとりかかり、現在、アーティゾン美術館に所蔵されている≪麦秋≫のような、ナビ派の影響を感じさせるコントラスと色彩の調和のとれた平面を活かした作品を手がけるようになる。
1920(大正9)年秋頃から印等結核の兆候が現れ、翌1921(大正10)年転地療養のため勝浦に移り住み、水彩、油彩などの風景写生を行う。4月東京芝の北里養生園に入院。5月6日没。浅草・浄林寺に埋葬される。
1936(昭和11)年資生堂ギャラリーにて川上涼花遺作展が開催され、『川上涼花画集』出版。
2002(平成14)年7月~10月、萬鉄五郎美術館と茅ヶ崎市美術館にて『川上涼花という画家がいた展』開催。
主な作品は、東京国立近代美術館、アーティゾン美術館、神奈川県立近代美術館にそれぞれ収蔵・寄託されている。
https://iwaogallery.jp/川上涼花202105/
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